2012年3月22日木曜日

鎌田圭司の世界史 第5回 パレスチナ問題 産業革命と第一次世界大戦

この対立関係図に出てくる国以外にも多くの国が参戦し、最終的には、双方あわせて31ヶ国という文字通りの世界大戦となったのです。

 イギリスはこの戦争を有利に進め、そして勝利を得るためにあらゆる手段をとりました。

 まず、アラブ人の民族独立運動を利用し、対トルコ戦に役立たせようとしたのです。もともとイスラム世界を生み出したのは、ムハンマド以来のアラブ人たちでしたから、オスマン=トルコ帝国の支配下におかれて以来、アラブ人たちの中には強い反トルコ感情があったのです。

 イギリスは戦争協力を条件にアラブの独立を約束すると通告しました。これを「フサイン=マクマホン協定」といいます。そしてアラブ人たちはいっせいにたちあがり、オスマン=トルコ帝国と戦い始めました。

< p> ちなみに、この時イギリスの軍事顧問としてアラブ軍を指導し、アラブの独立のために勇敢に戦ったイギリスの青年将校がいました。その人が映画にもなった「アラビアのロレンス」なのです。


行うための素晴らしい事

 また一方で、イギリスはユダヤ人に対しても戦争協力をとりつけようとします。ユダヤ人が中世以来、金融業に従事してきたことを思い出して下さい。イギリスは戦争のための資金提供を求めて、ユダヤ教財閥に「シオニズム運動」支持の約束を表明したのです。これを「バルフォア宣言」といいます。

 では、「シオニズム運動」というのは一体何なのでしょうか?それはユダヤ人のパレスチナへの復帰・建国運動のことを指します。

 19世紀の末期頃、ヨーロッパでは再び反ユダヤ主義の嵐が吹き荒れていました。ユダヤ人に対する略奪・虐殺、またドレフュス事件といった冤罪(えんざい)事件も起こりました。ドレフュス事件というのは、フランスのユダヤ系 将校のドレフュスが、無実であるにもかかわらず、ドイツのスパイであるとの容疑をかけられ、終身刑にされてしまった事件です。


アーティファクトは何ですか?

 結果的には彼は無罪をかちとりましたが、この事件はドレフュスという人物がユダヤ人であったために犯人に仕立てられたという側面があったので、ヨーロッパのユダヤ人に大きなショックを与えることになったのです。「われわれユダヤ人が迫害を受け続けているのは、国を持たない民であるからだ。国家建設のために、かつて祖先が神によって約束されたパレスチナに戻ろう。」という決議が、19世紀の末になされたのです。これがシオニズム運動の原点です。

 イギリスが第1次世界大戦になんとしても勝つためにとった、アラブ・ユダヤ2つの民族に独立・建国を認めるという、2つの外交政策が今日に至るまでのパレスチナ問題の直接的 原因なのです。


マンタはどのように文字列へです。

 つまり、「フサイン=マクマホン協定」と「バルフォア宣言」には大きな矛盾点があります。それは「パレスチナ地方」のとりあつかいです。パレスチナ地方は、イスラム世界の独立以来、新たにアラブ人が進出し新たに住みつくようになったところです。フサイン=マクマホン協定」でも、アラブ独立国家の領土となるはずだったのです。

 ところが一方で、イギリスはユダヤ人にこのパレスチナ地方に国家建設を認めるという二重外交(二枚舌外交)を行ったのです。そればかりではありません。イギリスはフランス・ロシアとともに、オスマン=トルコ帝国の領土を山分けしようと、裏でこっそりと秘密協定を結んでいたのです。これを「サイクス=ピコ協定」� ��いいます。

 これらイギリスの二重・三重の外交により、アラブ人たちの民族国家樹立の夢はうち砕かれました。


 第1次世界大戦後、独立したのはサウジアラビアぐらいなもので、他のアラブ人地域はイギリスやフランスの事実上の植民地(委任統治領といいます)とされてしまい、現地の住民の意思をまったく無視して境界線がひかれアラブの民族は分断されていきました。この時の境界線が、現在のシリア・レバノン・イラク・ヨルダン・パレスチナという国家(地域)の国境線となっているのです。

 このようにしてイギリスを中心とした大国のエゴは、現在まで続く「民族紛争」という災いの種を蒔いていったのです。

 この後、パレスチナはどうなっていくのでしょうか。次回のシリーズ最終回をどうかお見逃しなく。

  



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